いくつかの質問があり、それに答えた後で、夫人は、「わたくしども夫婦は他のかたとは少し異なっているかもしれませんが、なにごとでもおたがいに納得するまで、十分、徹底的に話し合うことにしています。
いままでもそうでしたし、今でもそうです。
病気のことでもそうしたいと思います。
嘘でもいいから、どうか主人が納得するように十分話してほしい」と話された。
ほんとうのことを話してほしいというのであればわかる。
一応説明してほしいというのであってもわかる。
しかし、納得がいくよう十分話してほしい。
いままでもそうであったし、これからもそうしていきたいという。
今まで何人も高名な作家のお世話をした。
それらの夫人に会い話もした。
今回はそれらのかたがたとはまったく異なる。
なんという夫婦であろうか。
(中略)その時はなんとか辻つまを合わせて、「いまは肝炎で、それも急性から慢性化しつつある。
病気というのは行きつくところまで行って、はじめて治癒傾向に転ずるものだ。
間もなく峠を越えると思うからそれまでの辛抱だ」などともっともらしく話したように思う。
大体、病気のほんとうのことを伏せて、一応もっともらしい理由をつけて話すのだから自分自身汗顔ものである。
その後、氏の『孤立無援の思想』のなかの「我が宗教観」を読んでその感を深くした。
「私には父の病気が胃がんであることが父にも家族にもうすうす解ってから父の亡くなるまでの僅かの期間のことを思い出さずにはいられない……。
」家族にがん患者があれば、自分の症状と比較して、うすうすどころか、よくわかるものである。
わたくしが氏に病気の説明をしたときも、氏は、「そうですか。
よくわかりました」といって、にこっとしただけであった。
医師の嘘を十分理解し、われわれを困らせないように配慮されたものであろう。
氏はわたくしが告知する以上に、十分知っていたと思われる。
もし、告知したならば、繊細ともいえる神経をもったこの作家に、死にいたるまで、襖悩苦悶を与えるようなことになっていたであろう。
うすうすわかっていても、告知はそれに念を押すようなものである。
彼を囲む友人も、彼の治療にあたる医師も一人として、彼の煥悩苦悶に対応できたとはとても思えない。
対応することができそうにないと考えられたので、あえて、告知せず、納得いくように話したのである。
今でも氏に告知しなかったことは正しかったと信じている。
現場の医師が告知している率はどうであろうか。
一九八九年、がん告知を考える悶悶というアンケート調査が行われた。
がん患者に告知していない医師はわずか六人で、一〇一人が告知していたという。
一九六九年には告知していた医師がわずか二八パーセントであったことを思うと、告知する医師の増えつつあることがわかる。
病名を告知するにしても、医師ががんという言葉を使うかどうかは重要なことではない。
重要なことは、がんはどういうもので、どう治療するか、患者に対して、不必要な不安を抱かえないように、十分な説明を正確にするということでなければならないといわれている。
では、患者の側からみればどうであろうか。
この場合、患者の利益とはなにか。
まず考えておかなければならない。
患者の利益とは、患者となっても、周囲から疎外されているという苦痛を味わうことなく、孤独と恐怖感におののくことなく、できるだけ家族とともに心豊かに生きることであろう。
患者はこれまで家族とともに生きてきたことに感謝し、残されたわずかの時間、たとえば、T氏の場合、夫人と十分話し合い、心を通わせ、納得した人生を生きるということではなかっただろうか。
そして、彼の利益は生への希望であったと思う。
それなればこそ、医師の嘘でもよい。
将来を聞き、希望をもとうとしたのではないだろうか。
さらに、死におもむく人の利益をあげるならば、思い残すことがないということであろう。
家族と十分心を通わせることができるならば、思い残すことはないであろう。
残された人にとっても、よい思い出を残すことになる。
このことは、将来、残された家族の心の支えになるであろう。
最期に家族の手を握り、「さよなら」といっていくことではないだろうか。
これまで、何人かの最期に立ち会って、感激を覚えたのはこのような別れである。
一九九〇年六月、厚生省は全国三〇〇地区の成人三万二四三〇人を対象に保健福祉動向調査を行った。
調査結果によると、「自分に知らせてほしい」が五八・〇パーセント、「家族に対して知らせてほしい」が七〇・ニパーセント、これに対して「知らせてほしくない」は二〇パーセントにも達していなかった。
一九八五年のある調査では、医師はがんを告知すべきでないといい、告知されたくないという人が五〇パーセントもあったのである。
患者の側からみて、告知を望む方向にあることがわかる。
しかし、告知された後の医療側の対応について、どう考えているのであろうか。
私自身は原則的に告知することにしている。
ただし、ただ一つの条件があり、その条件が満たされる場合である。
それは、医師側、家族側に告知後の対応ができる場合である。
対応できると信じて告知した途端、私の前から姿を消して、再び現われなかった患者もある。
ここで、告知の利益と不利益について考えてみよう。
利益としては、患者にがんの告知をすることによって、患者に積極的に治療に参加してもらい、患者自身が治療のもっとも活動的なメンバーの一人となってもらうことができるので、治療しやすくなる。
治療しやすくすることは医師の義務である。
告知によって、医師の責任は分散され、患者自身の責任による身辺の整理、残された一日一日を悔いのない生活をすることに生き甲斐を求め、人生の総まとめができる。
それにひきかえ、不利益になることは、不用意に告げて、告げた後の適切な対応ができないと、予後を悪くする。
また、不安が増大する。
告知する医師個人の価値観に基づいて、異なる価値感をもっているかもしれない患者の生きかたにまで立ち入るべきでない。
利益よりも不利益について、十分考えたうえで告知すべきであろう。
対応のない告知は悲惨である。
医師が告知するとき、とくに配慮していることはつぎのようなことである。
・患者が詳しい自分の病状や不治の病についての告知を希望しているかどうか。
・患者には常に生きる望みを残しておくべきであり、治癒の可能性も説明し、希望を持ち続けられるようにする。
単刀直入に不治のがんであるというべきではない。
・患者との信頼関係を確立する努力をする。
信頼をえられるように、話しかたや態度などにいっそう留意する。
・医師を訪れる患者は、治って、もフと生きたいと思っているのであるから、そのことを念頭に置いて、診療にあたる。
・説明に十分な時間をとる。
ゆとりのある雰囲気を医師の心遣いとして患者に示す。
・告知の時期を慎重に選ぶ。
しかも、機会があるたびに患者の様子を見ながら、病状を悟らせるように、しかも生きる望みを残してあげられるように徐々に、慎重に説明する。
・家族に受け入れ態勢ができていることを確認する。
逆に、告げないようにしている場合はつぎのようなときである。
治療の効果が全然期待できないとき。
患者の性格から判断して、精神的に耐えられそうもないとき。
告知することに、患者の家族が反対したとき。
告知することが患者の利益につながらないとき。
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